晶子の徒然草
代表が最新情報をお伝えすると共に、毎日に全力を尽くす意味合いや
季節の移ろいなどの想いを月1回配信しています。
夏の暑さも終わりに近づき、朝夕は心地よい涼やかな風を感じる毎日になってまいりました。ようやく母の四十九日を終え、母も父と共にお墓に眠ることになりました。そろそろ秋分の日が近づいてまいりましたが、私のお墓参りは原則として、お正月、春分の日、お盆、命日、秋分の日と決めています。もちろん、やむを得ない理由で行けないことが多々あります(ごめんなさい<(_ _)>)。今回は、四十九日の法要で、和尚様に教えて頂いたお話をさせて頂きます。
私たちの習慣である彼岸会法要(秋分のお墓詣り)は日本独自のものです。春分と秋分の日は昼と夜の長さがほぼ等しくなり、太陽が真東から昇り真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりとされており、春分と秋分の日は彼岸の中日とされています。極楽浄土は西方にあるとされているため、お彼岸をあの世とこの世が交わる日と考え、極楽浄土と最も心が通じやすい日なので、先祖の供養をするためにお墓参りをするようになりました。
彼岸は春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間となっており、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼びます。俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされています。六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための次の六つの修行をいい、波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることです。(六波羅蜜寺ホームページより)
- ◆布施…見返りを求めない応分の施しをさせていただく事をいいます。貪欲の気持ちを抑えて、物質だけでなく完全な恵みを施すことです。
- ◆持戒…道徳・法律等は人が作り現在はますます複雑になっています。私たちは高度な常識を持ち、瞬時に自らを戒める事が肝要です。
- ◆忍辱…如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかり、仏様の慈悲に通じます。
- ◆精進…不断の努力をいいます。我々人の生命は限りがあり、ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことです。
- ◆禅定…冷静に第三者の立場で自分自身を見つめることをいいます。
- ◆智慧…我々は仏様の智慧を頂戴しこの世に生をうけておりますが、貪りや怒り愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちです。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を実践し、智慧を生かしどちらにもかたよらぬ中道を歩むならば、此の岸から彼の岸へ行けるとされていますが、俗人で我欲だらけの私には厳しい道のりで、この六波羅蜜には胸打たれ考えさせられるばかりです。
私自身は秋のお彼岸になっても相も変わらず雑念に追われ、修行とは程遠く恥じ入るばかりです。お彼岸近くになると、小さい頃は田んぼや道端に赤い彼岸花が咲き乱れて、真っ赤で火を連想させるような花の形は花火のようにも見え、花が燃え盛る炎のように見えるので持って帰ると火事になると言われていました。このように、言い伝えられているのは彼岸花の球根には、毒があるからなのです。この毒はアルカロイド系で子供を死に至らせるほどの強い毒性があり、中枢神経の麻痺、吐き気、下痢などの症状もあるそうです。しかし、この事実とは反対に、この球根を畑に植えて、食用にしていた暗い飢餓の時代もあったのです。貧しい農民たちはこの毒のある球根を水にさらして、毒を抜き食することで飢えを凌いでいたと言われており、彼岸花は最後の最後に食べる、死を覚悟した”非常食”だったのかと思うと、胸が詰まるような故事ですね。
また、彼岸花は他にも驚くほど、たくさんの名前があります。中でも、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味で、「天上の花」とも言われます。おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ていますが、不吉さを感じさせる彼岸花のイメージを覆す、ちょっと素敵な名前だと思いませんか。このように、同じ花でも人のとらえ方により、このように見方が異なるのかと考え込んでしまいます。出来れば、私は彼岸花を「曼珠沙華」と見る如く、物事を明るく元気よくとらえていく人間でありたいと願っています。皆様も是非、そんな人生をご一緒くださいませ。
味覚の秋は、ぶどうや梨、柿、きのこと、どれも私の大好きな物ばかりです。時々、その地域の特産品やご自身で収穫された野菜や果物を頂きますが、いつもそれを機会に、料理のレパートリーが増えワクワクしています。美味しい秋の味覚で、暑さで疲れた体に元気を取り戻し、爽やかな季節を満喫してくださいませ。