晶子の徒然草
代表が最新情報をお伝えすると共に、毎日に全力を尽くす意味合いや
季節の移ろいなどの想いを月1回配信しています。
街路樹の緑が日を追うごとに濃くなり、光を受けて風にそよぐ時期となりました。さわやかな風に澄み渡る空、気持ちのよい季節の到来に心が浮き立ちますね。
我が家の庭も若葉や花々の香りで満ち溢れ、清々しい気持ちにさせてくれます。中でも玄関先に植えてあるヤマボウシが満開になり、清楚で可憐な姿を見ることができて喜んでいます。実は植えて2年目の昨年はほとんど花が咲かず、植木屋さんに相談したところ、植木と土の相性があり来年以降も咲くかどうかはわからないと言われ諦めかけていました。ところが、今年はたくさん花をつけてくれすっかり嬉しくなり、最近の私の幸せのひとつとなっています。
そんな自然の生命力あふれるこの季節、有名な俳句があります。江戸時代の俳人山口素堂の句で江戸時代には「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」と俳句に詠われ、昔から「初鰹を食べると長生きできる」と言われており、縁起の良い春の初物としてこぞって食されたそうです。初物には他の食べ物にはない生気がみなぎっており、食べれば新たな生命力を得られると考えられており、美味しいかどうかはともかく、今でも食品の初物はほとんどが高値です。
熱帯から温帯海域に生息する鰹は、「スズキ目サバ科マグロ族カツオ属」に分類される回遊魚です。この鰹には1年に2回、旬(漁期)があります。日本近海では毎年春になると、フィリピン沖から黒潮に乗って北上してきますが、この時期に獲れる鰹が「初鰹(上りガツオ)」です。その後、エサを捕食しながら三陸沖まで北上した鰹は、水温の低い親潮にぶつかるとUターンして、初秋頃から南下してきます。この時期に獲れるのが「戻り鰹(下りガツオ)」です。
エサ場に向かって北上中の初鰹は、脂身よりも赤身が多く、サッパリとしたみずみずしい味わいが特徴で、表面をサッと炙ってタタキにすると、爽やかな風味がいっそう引き立ちます。一方、夏場にエサをたっぷり食べた戻り鰹は、春よりも肥えて脂を蓄えています。濃厚でこってりした味わいなので、タタキにはもちろん、そのまま刺身で食べてもうまみ十分で、とくに脂の乗った腹側の身は、マグロのトロのような美味しさです。この戻り鰹の脂肪量は初鰹のおよそ10倍ありますが、脂肪とは言っても激しく泳ぎ回っている為に、所謂「病的な脂肪」ではありません。基本的に「高たんぱく・低脂肪」であり、 脂肪が増えても全魚類トップクラスの「たんぱく質量」で抜群の栄養バランスを保っているのが戻り鰹です。刺しの入ったステーキや大トロが大好きな人は脂ののったジューシーな戻り鰹を好まれると思いますが、ヘレステーキや白身魚が好きな人(私)にとっては、この季節の初鰹は大好評でしょう。
回遊魚である鰹は泳ぎ続けることでエラ呼吸をするため、巻き網漁では網にかかった時点で泳げずに呼吸が止まってしまいます。一方、一本釣りの場合は泳いでいる鰹を素早く釣り上げるので冷凍直前まで鰹は生きており、この差が鰹の味にも大きく影響してくるそうです。特に高知の鰹の一本釣りは魚体に傷がなく、身が傷んでいないことが特徴で、土佐のカツオの美味しさは天下一品。私もふるさと納税で返礼品として頂き、ネギや新玉葱や茗荷をいっぱい載せ、とっても美味しかったです。
回遊魚には他にマグロやサメ、エイなどがいますが、身近な魚であるイワシやマス、サケ、サンマ、ウナギ等も回遊魚の仲間です。回遊魚には鰹のように泳ぐのをやめると呼吸ができなくなり死んでしまう種類(マグロ、ブリ、アジ、サメ等)もいますが、サケやマス、ウナギは泳ぐのをやめても呼吸ができます。彼らは回遊=広大な海域を泳ぎ回って暮らしているということなのでしょうか。広い広い海の中を、餌を求めて移動する回遊魚たちが美味しいお魚の代表格と言えるのもわかる気がします。
狭いしがらみの中でひしめいている私達にとって、広い海でのびのびと泳ぎ回っている回遊魚はとても羨ましい存在です。水族館に行っても、泳ぎ回っている回遊魚達を見飽きることはありません。周りの人の表情を見ても、皆とても幸せそうです。
遠い海を旅してきた、しかも初物のお魚であると思えば、初鰹にめぐりあえた事が有り難く、美味しく食させて頂き私達の生命力もアップさせたいものです。
皆様にご理解頂けるように心をこめて執筆しておりますので、ご感想やご質問等をいただければ嬉しいです。
梅雨に入る前の花々が咲き誇るさわやかな五月晴れの日々を、明るく楽しく生気を漲らせて、ご活躍くださいますようお祈り申し上げます。
まっとう温泉ワンポイントレッスン10
今日本ではなかなか飲める温泉に巡りあえません。“飲泉”は新鮮でかけ流しの証です。体の不調にもジワーッときます。例えば私は胃酸過多(要するに逆流性食道炎を患っていま~す(^^;))なので、炭酸水素塩泉を飲むと胸がけが楽になります。また気管支炎になったときに塩化物泉や硫黄泉は痰を柔らかくし浄化してくれるような気がします。薬に頼りたくない私にとって飲泉も温浴効果もある温泉はお気に入りです。次回はリンパの流れと温泉の関係をお話ししますので、楽しみにしていてください。
出典:「日本百名湯」より
慶長9年(西暦1604年)、かの徳川家康は熱海で1週間の湯治をしたそうです。
群雄割拠の乱世を制した家康ですら、その後も地位を安定させるために猛烈な激務をこなす必要があったのでしょう。激務の合間を縫っての湯治こそが、彼の生命力再生の場であったのかも・・・。その他にも武田信玄、豊臣秀吉、西郷隆盛、歴史上の人物で温泉フリークはわりといますね!!
このように、日本人にとって『温泉』とは、今も昔も生命の水(癒しの場)であるのでしょう。私たちのDNAの中に、こうした情報が刷り込まれているからこそ、私たちは今なお温泉に入り続けるのでしょう。裸でゆっくり温泉に浸かれる文化の国に産まれて本当によかった…!!
最近では、こうした本物の温泉にのみ秘められた温泉力(=生命力)を見分ける力を私達は失いつつあるように感じます。それは温泉という名の単なるお風呂があまりにも多く、それに満足してしまっているからです。
- 本物の湯の生命力に癒される・・・
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では、温泉力とは・・・
家康以降、日本人にとっての温泉は心身の病を治癒する場であり、温泉場こそが、癒しのリゾートの原風景です。“癒されたい症候群”の私は、ヨーロッパ風のリゾートではなく、日本的なものに安らぎを得るのです。ゆったりとお湯に浸かり、肌との相性を推し量りながら湯浴みを味わう、お湯の質そのものを意識する、これこそが心身の癒し、復活する力を与えてくれる『温泉力』と思います。
- シャワー不要!源泉を楽しむ!!
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ところが、最近ではその『温泉力』が弱まってきています。その原因は、環境の悪化もありますが、根本的には前回まで掲載してきましたように、ザル法に近い「温泉法」、“町おこし”の名の下に全国の市町村に「循環風呂」を乱立させた地方自治体、そして無理難題を求めた私たち利用者ではないでしょうか。
そんな私たちにできることは、『温泉力』のある温泉を私たち自身が肌を通して知り、そうした温泉を守る努力をすることだと思います。
たとえば、温泉を使っていないシャワーはわざわざ塩素を含んだ水道水を温めたものを引いているのですから、せっかく『温泉力』のある源泉につかった肌をこれで洗い流して上がることになります。湯浴みをするということは、地球が奥深く守っていた養分を肌に吸収するということであり、『温泉力』を秘めた湯は皮膚の角質や脂を洗い流してくれるだけでなく、心の汚れまで清め、しかも癒してくれるとおもいます。
シャワーを使わない日本人の温泉浴の基本に立ち返った贅沢な湯浴みを味わって下さい。入浴する前にきちんと体と髪を洗い、きれいな体で温泉に入り、何もしないでただ浸かることの贅沢を、温泉をそのままの形で寄り添い続けることを、私たちは体と心で思い出すことが大事ですよね。